「今こそヒバクシャの声≪峠三吉からの贈り物≫を聴くとき」 (通りがけ)
2012-08-26 10:47:24
超重要!!!おしどりマコの会見(福島の現状、被曝病気、プルトニウム) (原発はいますぐ廃止せよ)
http://www.asyura2.com/12/genpatu26/msg/706.html#c12
および
福島住民の証言 「病院に検査を断られる」 「福島県知事から、福島県民の診察を受け入れないよう指示」 (原発問題)
http://www.asyura2.com/12/genpatu26/msg/688.html
#c39,40,42
へ峠三吉の著作を書き込みました。
広島で被爆した峠三吉はその八年後36歳で原爆症のため夭逝した。
死の二年前にガリ版刷り「原爆詩集」を発表し同年ドイツ
「ベルリン世界青年平和祭」で世界中から核兵器廃絶に6億人もの署名を集めた。
>>http://www.st.rim.or.jp/~success/tohge_ye.html
詩人峠三吉の詩魂
-詩人に代わり、詩に込められた思いは生きる-
村山直儀先生が、同時多発テロのチャリティキャンペーンに「白馬」の絵を出展しているというので、動機を聞こうと、さっそく電話を入れてみた。
先生は、即座に「ああ、それはね、佐藤さん。峠三吉さんの精神だよ。」と言われた。私も「そうですか、よく分かりました。」と間髪を入れずに応えた。世の中には、多くを語らずとも阿吽(あうん)で分かることもある。
以前、先生から、「原爆と峠三吉の詩」(原爆雲の下より すべての声は訴える/編集下関原爆展事務局/取扱長周新聞社)という小冊子をいただいたことがあった。そこには広島に投下された原爆の悲惨を伝える衝撃的な写真と絵、そして峠三吉氏自身の詩と子供たちが書いた詩などが紹介されているような凄まじい迫力の本であった。思わず目を覆いたくなるような凄惨な死者の写真の連続だった。原爆によって亡くなった母にすがって、オッパイを求める乳飲み子の絵。さらに閃光と熱によって、ほとんど裸同然となった先生が、自らの教え子たちを引き連れて、必死で行進している絵なども掲載されている。
本の中で峠三吉氏の「八月六日」と題された詩が紹介されている。
あの閃光がわすれえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦げた布をい腰にまとって泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれて筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで金ダライにとぶ蠅の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
あのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
またこの本には紹介されていないが、「原爆詩集」には、次のような有名な詩もある。これは女優吉永小百合さんなどの朗読によってマスコミでも多く紹介されているから、作者峠三吉氏の名は知らなくても詩の一節を耳で覚えている人も多いだろう。
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
故峠三吉氏は、昭和20年(1945)8月6日、爆心地から三キロ離れた翠町で被爆した。辛うじて命を取り留めた彼は、国立広島療養所で、原爆の傷に苦しみながらも、昭和26年(1951)11月、アメリカ大統領がトルーマンが、朝鮮戦争においても原爆を使用することを検討しているというニュースを聞き、矢も立てもたまらずに、先のような詩を書き始めたのである。それは二度とあのような悲劇を起こしては成らないという彼の良心の叫びそのものだった。
昭和26年(1951)1月からわずか三ケ月の間に、彼は心に深く染み渡るような又刺すような悲しくもそして激しい十八篇の詩を一気呵成に書き上げてしまった。それはまさに平和を希求する全人類の祈りとも言えるような強烈なメッセージを放つ作品だった。最愛の妻和子夫人の手記によれば、彼は原爆の真実を押さえ込もうとする勢力の力を感じつつも、療養所の守衛の目を盗んで「窓ガラスに歯ミガキ粉を溶いてぬり、夜は新聞紙などをピンで止め」て夜中まで書き続けたということだ。
同年、この一群の詩は、孔版刷りされ「原爆詩集」として「ベルリン世界青年平和祭」に、日本代表作品の一つとして送付された。彼の詩は、大反響を呼び起こし、平和を願う人々の六億の署名を集める原動力とも評されたのであった。
しかしそれから二年後の昭和28年(1953)3月10日、彼はとうとう36歳という若さで帰らぬ人となり、広島の原爆碑に名を刻まれることとなった。来年の2003年は奇しくも彼の没後五〇年の節目に当たる年である。
これで村山先生が、同時多発テロの犠牲者に対するチャリティを始めたきっかけについて、何故「峠三吉さんの精神」だと言われたのか、その意味がよくおわかりだろう・・・。 犯罪を犯すのも人類なら、犠牲になるのも人類なのである。よく「宗教戦争」なる言葉を最近耳にするが、神はきっかけに過ぎず、その裏には常にどす黒い利権や国際的謀略という人類の欲望が隠されているのだ。
芸術家村山直儀は、同時多発テロという行為が、全人類に向けられた暴力であるという認識をもって、同時多発テロ犠牲者のチャリティに立ち上がったのである。彼の意志は明確に非暴力と反戦にある。そこには同時多発テロというひどい暴力を受けたアメリカが国家として、自国に暴力をなしたビンラディン率いるアルカイダやそれを助けたとされるアフガンのタリバン政権に対する報復攻撃を容認するような性格を持つものではない。よく根本を見つめれば、原爆も同時多発テロも、人間が人間に為した犯罪的行為であることに変わりはない。
いかなる暴力もそれが人類ひとりひとりの生存の権利をその根本から否定する犯罪行為であるからこそ、峠三吉氏は、あのような強烈な原爆の詩を公表し、そして人類の良心に殉じて亡くなったのである。私は率直に言って、峠三吉氏の詩を読みながら、私という魂の中にある人間としての良心を奮い起こされる思いがした。そして改めてその詩魂(精神)というかその美しき良心を受け継いで行こうという村山直儀という孤高の芸術家の高潔なる精神に触れ、一瞬にして言葉を失っていたことに気付かされた・・・。佐藤
2002.3.20
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「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!
こどもの原爆被爆体験詩集『原子雲の下より』の序文に寄せて
峠 三吉
(未発表遺稿から下関原爆展事務局書き起こし文に≪加筆≫)
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すべての声は訴える
青空に雲が燃えていたら
アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら
雑草や埃(ほこり)の匂いが風に立ちこめていたら
戦後七年
決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で
広島の人々は
ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを
炎の中の瓦礫(がれき)の下の呼び声に憑(つ)かれることを
訴えどころのない憂憤(ゆうふん)に
ひそかに拳をふるわして耐えていることを
此(こ)の詩集を手にするあなたに知ってもらいたい
それは決して遠い記憶ではない
今、眼に映っている対岸の建物の壁が
突然破れ、瓦がはげ落ち
頭脳の奥で閃光(せんこう)がひらめいても
それは決して新しい事件に遭遇(そうぐう)したのではなく
それは
自分の生きようとする正しい力が
何か巨大にして非人間的な圧力によって
遂(つい)にうち負かされてしまったのだ
という絶望感で
受けとられるものにちがいない
此の詩集を読もうとする多くの人に知ってもらいたい
広島の、そして長崎の人間は
原爆の炎の中から脱出して起ち上がろうと努めつつ
その意味する欺瞞(ぎまん)的な力の中で
まだ必死にもがいている
もがいていながらも
私たちは
あの炎と血膿(ちうみ)のしみついた
皮膚の感覚で
愛する妻子や父母を茸(きのこ)雲の下で見失った
涙にまみれた体で
今はもう知ろうとしている
原爆を戦争に直接関係の無い老若男女の日本人の上に投下し
その後にわたってその所有を独占しようとし
その脅威(きょうい)をふりかざして
世界を一人占めにしようとして来た意志
日本が侵略されるという囁(ささや)きを吹き込み
再軍備にかり立て
そのような政策に反対する国民の口に
破防法(はぼうほう)という
猿ぐつわを噛(か)ませる意志が
すべて一つのものであるということを
もうはっきりと知ろうとしている
そして
此の詩集をお読みになるあなたも
きっと知るにちがいない
私たちが一個の人間として
正しく幸福に生きようとするねがいを
何時(いつ)の時代でも 常に
はばんで来たものがあったとすれば
その力こそまさに此の暗い意志であり
その権力こそまさに
私たちを
戦争にひきずりこむものであったということを
噫(ああ)そして
私たちは知ることが出来る
世界最初に原子爆弾を頭上に落(おと)された日本人だという
黄色い皮膚にかけて
漆黒(しっこく)の瞳(ひとみ)と
流れる黒髪にかけて知ることが出来る
今はもう
戦争を、
その物欲と権力保持のために欲(ほっ)する
一握りの、
人間と呼ぶに価(あたい)しない
人間以外の≪ものたちへむけて≫
世界中の
真実と労働を愛するすべての人々と共に
腕を交(く)みあって
平和へのたたかいを進めてゆくことこそが
私たちの
正しく幸福に生きようとする
人間としてのねがいを達成(たっせい)する
唯一(ゆいつ)の道であるということを
私たちは
日本人として
植民地支配に苦しんで来た
アジアの人間として
知ることが出来る
そのために
そうだ、それを
信じるために
多くの語り難(がた)い苦痛を越え
多くの語ることによる危険をしのぎ
老人も主婦も、
未亡人も、
青年も
又、
勇気ある教師にみちびかれた子供達も
すべての人々が
血と涙にいろどられた叫びを
此の詩集に寄ってあげているのだ
どうか
此の信頼と愛が
戦争を憎み
原爆を呪(のろ)う無数の声の中で
大きな稔(みの)りを持つように
その声の底にかくれつつ
永遠に絶(た)ゆることのない
地下からの叫びが
生きている私たちの力によって
癒(いや)されるように!
原爆が再び地上に投ぜられることなく
原爆を意図するものが
世界中の働く者の力によって
一日も早く
絶滅されるように!
此の詩集はそのために
あなたにおくられるのだ
一九四五年八月六日、午前八時十五分
広島に世界最初のウラニュウム二三五爆弾が投下され
九日 午前十一時
長崎にプルトニウム爆弾が投下された
広島では全人口四十万のうち
二十四万七千の生命が奪われた
軍事的には
勝負をそれのみで決しうるほどの力はでないといわれる
原子爆弾が
なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたか
落とされた広島は
無防備の市民の上であったし
(長崎では市街に近い宗教地域の上であった)
落とされた時間は
市民をまるで屠殺場(とさつじょう)のように
中心部に集めていた
それらはすべて
見事に計画されていたといえる
あの茸(きのこ)状をした雲の下には何があったか
そこにあったのは
疎開(そかい)できぬ児童を集め、
あるいは勤労奉仕に生徒を集めた学校、
陸軍関係のみでも五万人の患者を収容していた病院、
青年の出払ったのち堆積(たいせき)する事務に追われていた
官庁、銀行、
聖戦の勝利を祈らされていた教会、
主人をとられ主婦と子供で守っていた商店であり
それらはすべて破壊されたが
炎の海の外側にあった
多くの軍需工場は
(三菱造船、
三菱重工、
旭兵器、
日本製鋼、
兵器被服廠-西条・八本松へ疎開-
東洋工業、
油谷重工等)
窓、扉、天井が破壊された程度で
殆(ほとん)ど無傷であり
国鉄は三日間でその機能を回復した実状であった
その炎の海で死んだのは
勤め人、
学生、
小児などの老若(ろうにゃく)市民であり
兵隊にしてもすでに出しつくされたあとの
力弱い兵隊であった
一九四五年の春から夏にかけて
日本中の都市が
夜毎(よごと)に焼きつくされる
戦争の炎の前で
広島はあわれな生きもののように顫(ふる)えつづけていた
今夜こそ危ない
今夜こそ焼かれる、という噂(うわさ)
あるいは広島は水攻めにするのだというような噂によって
夜闇(よるやみ)にまぎれては逃げようとする市民、
橋の畔(ほとり)にひかえて
逃がすまいとする軍や自衛隊≪原文まま;自警団であろう≫
飢えた隣組(となりぐみ)の行列の間(あいだ)を
野菜を満載した軍のトラックが走りすぎる混乱の中で
河が白く埋まるほど、
七月末 空から撒(ま)かれた
七種類のビラには
原爆の廃墟(はいきょ)と同じ絵が描かれてもあったが
すでに疎開のすべはなく
(そのビラを持っていると死刑にすると脅され、
警察が人をやとって船を出し、
拾い上げて焼却させた)
それでも五日の夜、
広島をいよいよ焼き払うと
ビラが落とされたという
二、三日前からの噂によって
市民の多くは周辺の山や畑に逃(のが)れ、
濃い闇空の銀河のもと
不安な一夜を明かした
夜半、
豊後水道より広島湾上空へ
二百のB29は侵入し旋回数十分
広島を襲うと見せて
突然進路を西南方へ変え
光市の方面へ飛び去った
明け方
空襲警報は解除され
県内に侵入している敵機は四機、
そしてやがて離脱したと
ラジオは報じ
七時五十分、
警戒警報も解除された
この時、
市民はB29の爆音をきいたが
黒めがねをつけた米人の乗員が
人類の恥辱(ちじょく)をのせた三機によって
高々度より侵入しつつあった事を誰が知り得たろう
そして今夜も無事に済んだとほっと安堵(あんど)した人々が
家に帰り、
急いで朝食を済まし
(朝食の炊事の火はまだ消えるほどの時ではなかった)
出勤者は仕事場へ、
学生、生徒は学校から作業場へ
隣組は市の周辺町村から市の中心部へ
畑仕事をやめて松根掘りに日をあかしていた郡部からの
義勇隊もそれらと一緒に市の真ん中へ・・・・・・
それは統計ではかり出したように
一日の中で最も多数の市民が
屋外に溢(あふ)れている時間であった
此の広島という都市の、
雛鳥(ひなどり)のような中心部
この選ばれた時間
広島はどんな無心な表情をしていただろうか
爆心直下の広島中央郵便局では(本局とよんでいた)
丁度(ちょうど)夜勤と日勤者の交替時(どき)にあたり
全員六百名が
古めかしい煉瓦(れんが)造りの建物内に充満し
一人の老小使いのみが
玄関わきの塵溜(ちりため)にごみを捨てに出ていたところだった
七、八百米(メートル)東北方の練兵場では
丁度その朝入隊した男たちが
(中年の兵隊か一度病気で帰り再度招集されたものたちであった)
軍服をつけて整列し
見送りの家族が旗などをもって
名残(なごり)を惜しんでいる時だった
千米はなれた県庁では、
防空当直二百名が帰宅し
他の庁員が出勤し
動員学徒の少女たちが掃除バケツをもって
廊下を
歩いていたとき
約千五百米の市役所裏
雑魚場町の一帯では
県立高女、
県立一中、
私立二中、
女学院高女、
女子商業、その他の
一、二年生が
教師に指揮されて疎開家屋のあと片付けに
とりかかっていたところ
又同所、あるいは同じ距離の
土橋町一帯では市近辺よりの
隣組、義勇隊の老人や
子どもを背負った主婦たちが
同じ仕事にとりかかろうと集合して
汗を拭(ふ)いていたときだった
二千米はなれた
横川町の狭い商店街は郊外より市内へ
出勤する人の群(むれ)で埋まり
三千米はなれた家庭では
作業へ、あるいは職場へ家族を送ったあとの
年よりが幼児が
朝食のあと始末に働こうとしていた
ああ そのような
戦争の末期の不安のなかで
常に天皇を頭(かしら)とする権力者たちの意のままに
父や夫や息子をさし出し
ダイヤも金も、
あらゆる財産を投げ捨て
ぼろをまとい大豆を囓(か)じり野草をたべながら
従つてきた国民が
その愚かなほどに無心の表情を
八月の青空にむかって曝(さら)していたとき
TNT二万トン爆弾より強力な
グランド・スラムの二千倍以上の爆破力を有する
そしていまや
太陽の力が源泉となる勢力が
(八・六トルーマン声明)
(二〇〇〇呎(フィート)直下の温度は
摂氏三〇〇〇~四〇〇〇度-
ロスアラモス科学研究所「原子兵器の効果」より。
トルーマン大統領がいかにもやさしくヒルダと呼んだ)
上空五百米(メートル)に於いて
放射されたのである
大部分の子供達が此の詩集の中で
「ピカッー」と光ったという印象を伝えているほど
この時の光線の印象は強烈なものであり
体験者たちは
赤・紫・白・黄・紺色・橙(だいだい)色だったと
様々な感じを伝えているが
その強烈な光りは
それを直視したすべての人の視力を奪い
その瞬間から
広島の悲劇は始まったのである
中央郵便局は
未曾有(みぞう)の衝撃を真上から浴びて瞬時に倒潰し全員死亡
老小使いのみ一人生き残っていたが二、三日後に死亡し
練兵場の一隊は
全部赤剥(む)げになったり
半裸で作業中の兵隊はみじめであった
真黒く炭化したりして散乱した
(軍関係の死亡者は一二五、八二〇人と算出されている)
県庁で
圧殺(あっさつ)をまぬがれた人々は
水を求めて河岸へいざり寄り
万代橋の西詰では二日後まで
死体の山が
河底から土手より高く重なって盛り上がっていた
疎開家屋のあと片付にとりかかっていた
中学校、女学校の下級生徒たち、又それを引率指揮していた
先生たちの最後の模様を
どのようにつたえたらよいだろうか
思い思いの服装に
新しい麦ワラ帽をかぶったり
歌を唄いつつ
友人とふざけあったり
作業場に到着した
すべて十三、四才の少年少女たちが
突然の(不意の)閃光に出あい
打ち倒され
煙のはれ間やっと起き上がったものはすでに
花のようなもとの姿は奪われて
頭髪は焼け、前日に黒く染めた
着衣は焦げ飛び、
皮膚は剥(は)がれて
肉が露出し
顔はふくれた
降(ふ)りくる石や材木に打たれた
傷は石榴(ざくろ)のように口をあけて
その場で死んだものの骨、
水槽の中に教師に抱かれて
死んでいる死体
母を呼び
教師を呼び
歩けぬものは
腹這(はらば)って比治山方面へ逃れて行く
土橋方面の隣組は多くが
火傷(やけど)の傷手(いたで)と
焔(ほのお)に追われ
天満(てんま)川に這い降りて
水に流されたらしく この辺りの
消息はよくわからない
家庭の悲惨も同じであった
瞬時に倒潰(とうかい)した家屋の間から
焔に包まれる最後まで
助けを求めて掘られた腕
(倒壊した家の下敷きになった
子供を救ってくれと哀訴(あいそ)する
母親の必死の顔付(かおつき)は、
長く忘れる事が出来ない)
熱いよう熱いようの
細々とつづいたよび声は遂にとだえても
助けの力を得ることなく
広島全市が焼けはてて
骨となっても
骨のひらい≪拾い≫手さえ帰って来ない
此の時
たつ巻をよび風をつのらせる炎の上、
市の西北一帯に
真黒い豪雨が降り
己斐(こい)の山上にしばらくかかっていた
虹の色は生き残った人々の
記憶につよく
残っている
夜に入っても全市の
炎は明々(あかあか)と空を焦がしている
このとき市の周辺の町村の
病院、
学校、
お寺、
個人の家などには
逃れてきた人々が折り重なって倒れ次々と
口鼻から血を吐いて死んでゆきつつあった
(義勇隊を送った部落は軒並(のきなみ)に
二人、三人死に、探しにゆく。
葬式を出す。
怪我(けが)をして帰ってくる割当の罹災者は
なだれこんで眼も当てられぬ光景)
看護の婦人会など夜になると
恐怖のために逃げ帰る程だった
こうして
即死したものは骨とドクロになり
(一中の焼跡にはドクロが机の配列の通りに並んでいて
手に取ろうとすると灰となって崩れた。
中心部では骨も何も無い)
火傷のものは
一週間から八月中旬までの間に
膿(うみ)と蛆(うじ)にまみれたまま次々と
死に 九月頃
無数の蝿(はえ)が発生した
八月二十日頃より
原爆症が始まった
体に無疵(むきず)のものが
髪がぬけ
急に
下痢(げり)、
嘔吐(おうと)、
発熱し
口からの出血は止まらず
全身に斑点(はんてん)が現れ
死亡する
この手のほどこしようもないこの症状が
生き残った人々の上を襲った
(ひどいものは白血球が五百まで減少した。
健康体で七千~八千、一千以下では生命が危ない)
薬品類はすでになく
栄養を、
新鮮な果物を、といってもこの時国民の誰がそれらを
手にし得(え)よう
このような時でさえ
一部の病院では
金のあるものは あたう限りの治療をうけ
身よりも金もないものは形ばかりの治療で放置された
そして一方
火傷の人々は
幾度(いくたび)皮膚が貼っても又その
底からの膿(うみ)で破れ
その苦痛は
自殺を欲(ほっ)する苦しみ
このような中で
死ぬものは死に
残るものは残ったが
戦後七年間の歩みの中で
この原爆の影響がどのように
尾をひいているか
東雲(しののめ)付中≪附属中学≫で
生徒たちに
「生い立ちの記」を書かせたら
殆ど全部のものが
原爆のことにふれていたというほど
広島の人々の間にしみ通っている原爆が
ケロイドにより
原爆症により
いかなる被害を及ぼしているか
広島の中心地にいる人は
体験者が殆んどいない、
それは大抵(たいてい)の家が
一家全滅してるからだ
あの驚きのために
気のふれた(健忘性失語症)子供
馬鹿になった(記憶喪失)青年
治療ののぞみない体に
絶望のあまり自殺をしようとするもの
それらの悲しみと苦悩は
すでに今迄(まで)の年月の間で
耐ええぬものは死に
耐えうるものは踏みこえて来たものの
顔面のケロイドのために平常は
家にひきこもり、
八月六日の命日のみには
爆心地の供養塔に参りにゆく姿の見られる
娘さんたちの
胸に秘めた涙は何によって
慰められる事が出来よう
又
詩の中にもかかれているように
禿(はげ)よ禿よとけいべつされる
子供たちの悲しみを誰が
癒(いや)してやれようか
しかも
七年たった現在でも尚(なお)、
「原爆の子」の伊藤久人君が今春死亡したように
原子爆弾症は継続して起こりつつあり
戦後現在まで
全く何ともなかった者が急に
白血球の減少 又は
急増(きゅうぞう)を来(きた)して
死に瀕(ひん)しつつあること
又
遺伝的悪影響が科学者
(ハックスレ-)によって説(とな)えられ
ワシントン二二・三・十六発AP共同は
米陸海軍軍医ならびに
科学者からなる原子爆弾の
被害調査委員会が、
広島および長崎の
爆撃生存者について
医学的調査をつづけて来たが、
二十六日生存者の間から数名の
奇形児が生まれたことを発表した。
但し
原爆が直接の原因であるとの確証は
まだあがっていない(毎日三・二八)
と報じられるようでは
一体どうなるであろう
そして又 それらはすべて
治療の方法がなく、その
見通しさえないとしたら
又落(おと)された時どうなるのであろう
原子爆弾の使用されぬことを
再び戦争の起こされぬことを
ねがう必死の声は
この苦悩の中から叫び出されているのだ
一九四五年 ドイツの降伏後三ヵ月で
ソヴェートは日本に宣戦すると決まった
ヤルタ会談が二月に終り、
四月一日米軍は沖縄に上陸
同≪四月≫五日小磯内閣は退陣
同日モロトフ外相が、日ソ不可侵条約の不延長を通告して来た
五月八日ドイツはついに無条件降伏をしたが
ソヴェートの戦力消耗を待つように、
第二戦線の形成をおくらし≪遅らせ≫ていた米英が
スターリングラードの反撃より急に赤軍が攻勢に転じると、
作戦上の無理をおしつつ
イタリーやノルマンディーに上陸し、
ベルリンの争奪戦が行なわれる
そのような中で
日本の戦力もすでに打ち滅(ほろ)ぼすべき敵ではなく
早く飼いならして次の相手に
使用すべくねらわれていた
然(しか)も
日本の財閥と軍閥はそれを知って、
国民を本土決戦の叫び声の中においやりながら
(君が代をうたい、「日本は勝ちますね」と先生に死の前に
ささやいた女生徒〈進徳高女〉のようなものはどこにでもいた)
天皇制を保持(国体ゴジ≪護持≫)しながら
戦争を終えるケイキ≪契機≫をつかもうとねらっていた
二人の客に媚(こ)びを売る女のように
前総理大臣広田をソヴェートに当たらせ
横浜銀行スイス代表者にアメリカ実業団との交渉をさせようとした
六月二十一日 沖縄での日本軍の組織的抵抗は終り
七月十六日 ニューメキシコで世界最初の原子爆発が行われた
その翌日ポツダム会議開催
二十六日同宣言発表
すでに八月八日にソヴェートが対日宣戦布告するのは明瞭であるし
そうなれば赤軍がいかに短時間で日本に到着するかは
充分予測される
このような中で
「何故原爆を使用するなら、
連合国主催の実験でその威力を示し
その基礎に立って
日本に最後通牒を発し、
責任の負担を日本人自身にゆだねなかったか」
といい
この詩集の中で
子供たちが
「なぜ広島に落したか」と責め
「どうせ落るなら砂漠におちろ」とうたっても
「もし原爆投下の目的が
ロシアの参戦前に日本を叩(たた)き潰(つぶ)すことにあったとすれば、
ないしは少(すくな)くともその目的が
日本の崩壊(ほうかい)に先立つロシアの参戦をして
名ばかりの参戦に留(とど)まらしめることにあったとすれば・・・・・・」
そのようなことは時間的にも
又そうでなくとも
考えられなかったのである
こうして八月六日、
広島の上に原子爆弾一号は投下された
そうして八月九日、ソヴェート軍が満州国境より急速力で
南下しはじめた朝、
長崎に二号が投下された
かくして十四日
日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)し
終戦の詔勅(しょうちょく)が出された
その中で天皇は
「加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所
真ニ測ルヘカラサルニ至ル」といわれている
K・T・コムプトン博士は
「原子爆弾の使用が
アメリカ人、日本人の数十万-おそらくは数百万の
生命を救ったという確固たる信念をいだくに至った」
とのべ
とにかくこれによって
日本は降伏し
米国は一挙に日本を占領し
日本の天皇と財閥、軍閥はその力を保存したまま
国民の前に
戦争をやめるいいわけを得たかたちとなった
そうしてこのことがその後(のち)
効果をあげるためにどんなに
言いひろめられたかを見るのは興味深い
先ず
原子爆弾の絶対的な威力をつたえる言葉が
流布(るふ)された
「この威力 正に火薬二万トンに匹敵」(中国二〇・八・一五)
「今後七十年は棲(す)めぬ-戦争記念物広島、長崎の廃墟-」(毎日二〇・八・二四)
「死者なほも続出」(朝日二〇・八・一三)
「広島の被害世界一」(中国二〇・九・四)
そして
永(なが)く原爆のことを書くことが禁止されていた
この恐怖とともに
原爆こそ日本の救い主だった、
感謝すべきだ
原爆は平和をもたらしたものであり、
広島の犠牲者は
平和のための殉教者(じゅんきょうしゃ)のように扱われ、
家族を失った人々はそれをもって
諦(あきら)めようとした
諦めさせるには
広島が真宗(しんしゅう)の伝統的地盤であるということは
もって来(こ)いであったし
長崎もカトリックの地盤、しかもわざわざ
信徒たちの居住地の上に落としたのも
意味のない事ではないと思われるのだが
(医科大学、養育院、天主堂のある町はずれの地区)
かくして
「ノーモア-ヒロシマズ」が叫ばれ
片方でアメリカを美化し
片方で広島では平和を売り物にすることとなった
(広島平和記念都市建設法案が
二四年めでたく議会を通過する)
毎年の八月六日
爆心地の平和塔の前で市が主催する平和祭は、
花火をうちあげ
鐘(かね)や鳩(はと)や展覧会や踊りの大会と賑(にぎ)やかにくりひろげられ、
五人の孤児たちが父母に再会しようと少年僧になったことがもてはやされ、
ミス・ヒロシマが長崎の土をはらはらふりかけたりするが、
生き残った人々の根深い反発を受けた
しかし一九四九年、ソヴェートの原爆所有が明らかとなり
一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が始まってより
その声が変化してきたのを私たちは知っている
今までの悲惨さによる威嚇(いかく)から(水素バクダン!)
原爆の記憶を抹殺(まっさつ)しようとする動きに変わってきた
原爆広島の象徴(しょうちょう)になってきた産業奨励館のドームを崩し
原爆娘は戦犯(せんぱん)を慰問(いもん)させられ
原爆一号といわれる
十六回の手術を繰り返したK氏のケロイドの体も日赤から追放し
一方、
精神養子の運動が行われ
広島の廃墟と
魂(たましい)の傷痕(きずあと)を
緑の芝生と
植民地的文化によって
埋めつくそうと変わってきた
再軍備は
原爆投下の意味の延長であり
その中ではすでに
戦争を否定(ひてい)する平和の声は
弾圧(だんあつ)される
(一九五〇年の官制的なものも平和祭の全面的禁止!)
そして
一九五一年の八月六日の式典には
朝鮮戦線からの
パイロットが参列し
広大学長は
戦争を肯定(こうてい)する平和をとなえる
この中で誰が
沈黙(ちんもく)していられるだろうか
広島の
長崎の
いや
日本人としての私たちがどうして
黙って居(お)れようか
この詩集の中で大人たちは
「死ぬ前でないと本当のことはいえぬ」
という叫び声をあげた
子供たちは真向(まっこう)から
戦争と原爆反対の声をはり上げる
この仕事の中で結ばれた
子を失った主婦は、
夫を失った未亡人は、
ケロイドの娘は
共(とも)に立ち上がって
原爆を落としたものに対し
「つぐないを!」
と叫ぶ
流された血はつぐなわれねばならぬ
しぼられた涙は拭(ぬぐ)われるべきだ!
しかも未(いま)だ この詩集に現れたものの
何倍、何千倍の声が
心の奥に秘(ひ)められているならば!
・・・・・・
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戦争と原発事故は人災の極致でありともに
地球に対する最悪の犯罪である。
峠三吉は36歳で死去したが
この世の戦争のすべてを見通して
子供たちのためにこの詩を遺した。
この詩に書かれた
自分の物欲や征服欲支配欲を満たすために戦争を起こして
他人を殺戮することを何とも思わない
人間と呼ぶに価しない
人間以外のこのようなものたちをこれ以上
この世に作り出さないために、
「すべての声は訴える」を
全世界の子供の教科書に掲載しよう!
すべての子供たちを
心正しく育てることこそが
人間に天与された使命である。
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原爆詩集の峠三吉自筆あとがきを示す。
あとがき
私は一九四五年の八月六日の朝、
爆心地より三千米あまり離れた町の自宅から、
市の中心部に向って外出する直前原爆を受け、
硝子の破片創と数ヶ月の原爆症だけで生き残ったのであるが、
その時広島市の中心より約二千米半径以内にいた者は、
屋内では衝撃死又は生埋めにされたまま焼死し、
街路では消滅、焦死。
あるいは火傷して逃れたまま一週間ぐらいの間に死に、
その周辺にいた者は火傷及び原爆症によって数ヶ月以内に死亡、
更にそれより遠距離にいた者が辛うじて生き残り、
市をとり巻く町村の各家庭では、
家族の誰かを家屋疎開の後片づけに隣組から出向かせていたため
骨も帰らぬこととなった。
又その数日前ある都市の空襲の際撒かれたビラによるという、
五日の夜広島が焼き払われるという噂や、
中学校、女学校下級生たちの疎開作業への動員がこの惨事を
更に悲痛なものとさせたのである。
今はすべての人が
広島で三十万近い人間が一発の原子爆弾によって殺された
ことを知っている。
長崎でも十数万。
然しそれは概括的な事実のみであってその
出来事が大きければ大きいだけに、直面すれば何人でも
慟哭してもしきれぬであろうこの実感を
受けとることは出来ない。当時その渦中にあった私たちでさえこの
惨事の全貌を体で知ることは出来なかったし、今ではともすれば
回想のかたちでしか思いえぬ
時間の距りと
社会的環境の変転をもった。
だがこの回想は
嘆きと諦めの色彩を帯びながらも、
浮動してゆく生活のあけくれ、
残された者たちの肩に
つみ重ねられてゆく重荷の中で常に
新しい涙を加え、
血のしたたりを増してゆく性質をもち、また
原爆の極度に惨虐な経験による恐怖と、それによって
全く改変された戦争の意味するものに対する
不安と洞察によって、
涸れた涙が、
凝りついた血が、
ごつごつと
肌の裏側につき当るような
特殊な底深さをもつものとなっている。
今年はなくなった人たちの
七周忌にあたるため広島の大部分の家庭が、一度に
応じきれぬ寺院の都合を思いぼつぼつ早めの
法事を営んでいるが、その
座に坐る人たちの
閉された心の底にどのような
疼きが鬱積しつつあるかということを果して誰が
知り得るであろうか。それはすでに
決して語られることのないことば、
決して流されることのない涙
となっているゆえに一層
深く心の底に埋没しながら、
展開する歴史の中で、
意識すると否とに拘らずいまや
新しいかたちをとりつつあり、
此の出来事の意味は
人類の善意の上に
理性的な激しい拡大性をもって徐々に
深大な力を加えつつあるのである。
私はうす暗い広島療養所の一室でこの稿をまとめた。
まとめてみながら此の事に対する
詩をつくる者としての六年間の怠慢と、
この詩集があまりに貧しく、
この出来事の実感を伝え
この事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて
歴史の進展における
各個人の、
民族の、
祖国の、
人類の、
過去から未来への
単なる記憶でない意味と重量をもたせることに
役立つべくあまりに力よわいことを恥じた。
然しそれを感じながらも
敢て出版しなければならぬ
追いつめられた時代であることを知れば、
さらに時間をかけて
他日の完璧を期することは許されないと思った。
おそらく此の機会を外したなら
この詩集は日のめをみることが出来なくなるであろうし、
また相当考慮を加えねばならなかった
このかたちのままでさえ
読者の手に届け得るかどうかを
危ぶまれるのが実状である。
然しともかくこれは私の、いや
広島の私たちから全世界の人々、
人々の中にどんな場合にでもひそやかに
まばたいている生得の瞳への、
人間としてふとしたとき
自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ
優しい手の中への
せい一ぱいの贈り物である。
どうか此の心を受取って頂きたい。
尚つけ加えておきたいことは、
私が唯このように
平和へのねがいを詩にうたっているというだけの事で
いかに
人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬごとく
時代が逆行しつつあるかということである。
私はこのような
文学活動によって
生活の機会を殆ど無くされている事は勿論、
有形無形の圧迫を絶えず
加えられており、それはますます
増大しつつある状態である。
この事は
日本の政治的現状が、いかに
人民の意志を無視して再び
戦争へと
曳きずられつつあるかということの何よりの
証明にほかならない。
又
私はいっておきたい、こうした私に対する
圧迫を推進しつつある人々は全く
人間そのものに
敵対する行動をとっているものだということを。
此の詩集は
すべての
人間を愛する人たちへの
贈り物であると共に、
そうした人々への
警告の書でもある。
一九五一・六・一
峠 三吉